
【ブックレビュー】自由とセキュリティ
今年最後の記事は、普段と少し経路の違うブックレビューとなります。 タイトルは「自由とセキュリティ」。タイトルを見たファーストインプレッションは「自由とセキュリティって対立するものなの?」でした。僕がいつも担当しているセキュリティは所属している企業のセキュリティ。確かにその現場では、個人の自由と組織のセキュリティは相反するかもしれません。セキュリティは個人の勝手なオペレーションを許さず、好き勝手に入れたソフトウェアを許さず、知らぬ間に使っているクラウドサービスを許さない、自由(無秩序)と反する行為です。
しかし企業活動と、この本が記す社会での一般的な活動は異なります。例えば、業務のメール内容を閲覧することはプライバシーに違反しているとは言えない、という考えがあります。しかし国家にそれをやられたら拙いと感じるのは明らか。 この本ではセキュリティを 「生命や生活の安全をもたらす」 モノと定義づけられています。セキュリティとは秩序であり、一つにまとまる意思である、と。一方でセキュリティのために個人は自由や権利を制限されても良いのか、秩序という名の牢獄となり、人々のセキュリティを低下させていないのか。先日崩壊したシリアの政権は不当逮捕や民衆への迫害で秩序を維持していましたが、それが人々にとって安心な社会だったとは思えません。
僕ら大衆は社会のセキュリティのために自由を制約するべき、と自分たちで考えることもあります。分かりやすい例はコロナ禍での行動制限です。あの行動制限は法律にのっとったものではなく、”お願い”でした。行動制限が法律で設定できた場合それこそ自由の危機ですが、あの当時は僕ら普通の国民が自分の行動を制限し、飲みに行かず、遊びに行かずの生活を送っていました。それこそが社会のセキュリティを維持し、自分達にメリットがあると考えたからです。
この本では「権力者がセキュリティを維持することを名目に、個人の自由意思を制限することについて」過去・現代の哲学者がどう考えてきたのかを6人の言説を基に考察しています。 先ほど書いたようにこの本で言う「セキュリティ」は「社会的秩序」と置き換えるこのができる用語なので、私たちコンピュータセキュリティ担当者がこの本を読むと、イメージしにくい話かもしれません、しかし歴史が好きな自分は興味深く読みました。
筆者に近しい考えを持つイギリスの哲学者であるジョン・スチュアート・ミルの「ソクラテスやキリストは社会では”異端”として殺されたが、それが多数決だから正しい行いだったと言えるのか」という話はなるほどです。ミルは多様性や少数意見は「社会の発展のためにも許容されなければならない。多数派は受容しなければならない」と強く主張します。セキュリティという画一性を非常に恐れていたことが分かります。
一方で「リヴァイアサン」を記したホッブスは異なる考えです。権力が王権から議会を行ったり来たりする時代に生きたホッブスは、権力を前にした個人の自由に対する無力さを持っていたと思われます、「脅されて選んだ自由もまた自由」「水は上から下にしか流れない」など、その考えは権力寄りです。リヴァイアサンの画をよく見ると、巨大な支配者の身体は複数の個人で構成されています。自分の権利を譲渡していることを意味します。ホッブスは社会のセキュリティを重視しており、個人の自由を捨て、社会秩序を維持することを是とします。
ルソーは「社会契約論」の中で、ミルともホッブスとも異なり”自由も保持する、セキュリティも守る”と主張します。自由という概念が「他者に依存しない」という考えは古代ギリシャの時代からある伝統的な考え方で、貧民が富豪から直接お金を受け取ると、そこには上下関係、従属関係ができますが、間に組織(国家と言い換えてもよい)が挟まれば他者には(表面的には)依存しなくなる、そういう形態をルソーは提唱したように読んでいて思いました。ルソーは人民が自由を主権として持っていると主張する一方で、社会のセキュリティに関しては厳格な面を持ち、必ずしも「ホッブス=権力側の都合、ルソー=民の意志を重視」という単純化はできません。
20世紀に活躍した哲学者バーリンの思索は、我々と時代が近いからこそ、現代に私たちが感じている社会の構造的問題を前にして、自由を主張することが簡単でないことが共感できます。今はインターネットにより世界中の社会状況が分かる時代です。それまでの歴史から現状までまったく違う世界各国において矛盾のない統一的な見解を出すことの難しさ。バーリンも「自分の議論は究極的・最終的・唯一の回答のようなものがあるという考え方への批判が根っこにある」と主張していました。一元的な解への信仰こそ殺戮を産むと。これは間違いないですね。「自分が絶対的に正しい」という考え程恐ろしいものはないですからね。
カール・シュミットは戦後日本の思想家や現代中国政府にも影響を与えているとされています。ナチスドイツに協力した、あるいは協力せざるをえなかった彼は過去何回か著作物を改定し、過去の主張を無かったことにするなどの行いもしている複雑な人です。彼もまたホッブス同様、自身が生きた当時の状況、ワイマール共和国が自由な国であった故の政治的停滞に対して、セキュリティの強化と第三の道による打開策があるべきだと考えました。それがナチスと親和性があったとことで戦後は批判されます。しかし現代でもどうしても議論による解決がぜんぜん進まない場合、えいやっとちゃぶだい返ししたり、ことを単純化することで強引な解決方法を計ろうという意見は出てきます。この本は過去の哲学家の文献を紹介しますが、けして歴史的事実ではなく、今私たちの周りで起きている議論とも通じる話です。 シュミットはホッブスを強く支持していましたが、ホッブス同様、自分の生存を脅かされる状況であり、下手なことを書けば命が危ないという背景があるところで政権に好まれるような論陣を張りました。彼への批判はもっともなのですが、安全な場所にいる我々が好き放題批判するのはずいぶんな話です。
最終章はフーコー。権力はネットワークの末端、草の根にあるという言説は現代人の僕には今までの政治思想家の中でもっとも腹落ちします。筆者が分かりやすい事例として防犯カメラを例として挙げています。たしかに、防犯カメラは権力者による設置ではなく、一般人がセキュリティを求めているからです。
この本を読んでいて総じて思うのは、彼ら思想家は人間社会について真剣に考え、悪い点、あるべき形を、様々な事実を基に自身の説を補強して主張しますが、結局ブーメランとして自分に返ってくる、という点です。穴のない論説は存在しません。 現代はSNSとインターネットの発展で、誰もがこの本で紹介されたような言説を考え、主張することができます。個人の投稿で多くの「いいね!」をもらっているものもありますが、ますが、結局みんなポジショントークなのではと思っています。声高に叫ぶアカウント、聞き耳が良い言説には要注意ですね。
自由とセキュリティ、考えさせていただきました。自由はとても大事です。ところで、この本の後半には「自由は重要だが、それを追求するのはあくまで一部のエリート、大衆はセキュリティを重視する」という文章が複数回出てきます。自由であることはとても大事ですが、まず平和と安心が守られなければ、自由はすぐに無秩序に取って代わってしまいます。これはおそらく現代の自由主義者の多くが陥っている問題なのだと思います。自由は人間が人間らしく生きるための最も大切な要素の一つ。だからこそ権力に自由を制限される言質を取られないよう乱用を避けないといけない、というのが僕の考えです(それはいわゆる「空気を読む」行為と言えるのかもしれません。純粋な自由主義者にとってそれは「権力者への忖度」と批判されるかもしれませんが、何物にも限度があるはずです)